[私のビジネスマンとしての生い立ち]

[私のビジネスマンとしての生い立ち]

 私は、学習院大学理学部化学科を卒業し、当時同級生がいわゆる化成メーカーや製薬会社、化学商社等に就職していくなか、当時は全く無名の「ベンチャー・リンク」という今は東証1部に上場している経営コンサルティング会社に就職しました。

 このVLという会社は経営理念が2つあり

 1.日本の大半の会社は中小企業である。それゆえ中小企業の活性化こそ日本の活性化につながる。その中小企業の支援を行う

 2.独立精神旺盛な人材を育成し、その人材に巣立ってもらい、人材輩出機関たる会社になる
この理念にとても感動し、小さい頃から「他の人にできない何か」になりたかった私は、自分も社会の活性化の触媒になりたい、いずれは独立して、世の中にその商品やサービスを問いたいと思い入社をしました。

 独立経営者を夢見て、VL時代の3年間は本当に寝食をわすれ、仕事に邁進していました。

 VLには、「ライフプランニング研修」というものがあり、毎年毎年自分のライフプランを年表にしてグループ内で発表するものです。当時、同期の新卒入社組は26名おりましたが、編集希望の女性1名を除いては、ほぼ全員が「社長になる」と目標を掲げるような会社でした。入社後、皆朝から晩まで、会社にやらされるのではなく、自分の将来のために、本当に良く働いていたと思います。

 私が働いた94年から96年は本当に恵まれた年でした。95年にVLが公開することになるのですが、公開する前の年、公開した年、公開した後の年と3年間在籍したことで、株式を公開する意味、公開したときにお客様の反応、また社内の人材の意識や人材像の変化等を肌で直に感じ、私の会社に対する価値観や考え方に大きな影響を与えました。
 そして96年、当初の修行と思っていた3年間が過ぎ、独立の意志を固めていくのでした。

 当時、「若手ベンチャーネットワーク」という若手起業家や起業家予備軍のための勉強会を行っていた私は、FAXで1000名、電子メールで5000名の方々に情報配信をしておりました。95年・96年当時、電子メールで5000人の読者が、1個人のメールマガジンにつくというのは、とてもものすごいことでした。その電子メールの大きな可能性を感じて、電子メールの情報配信や広告などを行う「メールニュース有限会社」を97年6月に設立し、ベンチャービジネスをスタートさせたのです。

 私一人でスタートしたその会社は、その後4年間で従業員60名、売り上げ14億円を越えるまでに成長しました。
公開企業としての成長を目標としており、公開のための準備も証券会社や弁護士のチェック等すべて整えたところ、すでに上場している会社から、合併の話がもちあがり、「上場か合併か?」の2者択一を、私は電通グループの傘下に入るという決断をし、2001年7月、電通・ソフトバンクの合弁会社「サイバー・コミュニケーションズ」に株式交換で会社を買収されました。

 私が、築30年のおんぼろアパート「みやぎの荘あおい室」からスタートした300万円の有限会社は、22億4000万円という価値を認められるまでになったのです。

 残念ながら、合併した公開会社の株価が、その後一番低いときで20分の1になったということもあり、自分の財産としてはまったく残っておりません。
 ところが当時私のような30そこそこの若造が経営する会社に、30もの投資会社が列をなして投資をさせてくださいといい、実際7社から6億円も投資を受け、他のネットバブルの会社のようにすぐに全部を使うでもなく、5億円の手持ちキャッシュを持ちながら合併をしたのです。

 お金という資産はたいして残りませんでしたが、この会社の経験はいかものにも代え難い経験という財産になっております。